図書館で調べ物をしていると、期せずして「神戸連続児童殺傷事件」の犯人、そうあの「酒鬼薔薇聖斗」の事件時に紡いだ詩『懲役13年』に出会った。そこにあったのは、早熟とも言える、またそれ故に幼さ(犯行当時14歳)が際だつレトリックと引用にまみれた自己分析だった。
自我の崩壊を驚くほど冷静に切り取っていた言葉達から、それらを紡ぐことで、「魔物」に食いつぶされることを正当化しようとしていたのだろうか。「ゲーム」という表現を用いてはいたが、彼は本当に心の内から殺人を「楽しんで」いたのだろうか、などなど色んな事を思った。勿論、彼がしたことは許されることではないし、同情する気もさらさらない。それは思う相手を違えているというものだ。そもそも今日書くことは事件の事ではない。
言葉の力。言葉を紡ぐ力とも言えるかもしれない。
現役中学生の妹が使っている国語のテキストを見ると僕らの使っていたそれよりも「文章表現」であったり「文書作法」といったものにページが割かれている事が分かる。「書く力の欠如を憂う」といった言説はよく耳にすることではあるが、その影響なのだろうか。
しかし、それ以上によく耳にするのは「書き方が分からない」という言葉だ。「書く力を」「論理的な表現力、構成力を」という指導を受けてきたはずなのに。そして小学生の頃から読書感想文やらなにやら、やたら「書く機会」はあったのに。これはどういうことだろうか。
恐らく、書くことの作法としての「書き方が分からない」のでは無いのだと思う。書く技術そのものについては、先のテキストを見ても十分すぎるほどの内容が載っていたし、何より作業や宿題であってもそれなりに「書いて」きたはずだ。「分からない」の正体は「どう書けば」ではなく「何を書けばいいのか分からない」といった事なのではないのだろうか。もっと言えば「何を書きたいのか分からない」ということだ。欠落しているのは「書く力」ではなく、「思う力」そしてそれを文章に限らず「言語化する」ということなのだと思う。それらは全てが「カワイイ」に集約されてしまうような言葉使いとも無関係ではないのかもしれない。
個人的に「文章が上手いなあ」と思う人に共通していることがある。それは修辞のテクニックがどうのという事ではなく、伝えたい事、表現したい事がしっかりと自分の中に「言葉」という形で存在しているんだろうなあ、と思わされることだ。そしてそういう人たちの言葉は賛否の感情を抜きにして、とにかく強い。
件の彼を思う。そこには沢山の言葉があった。しかし、彼が言葉によって心を可視化した末路はあまりに悲劇的なものであった。そこから言葉のある種の無力さの様なものを感じる人もあるかもしれない。しかし僕はその引用の多さから考えて、彼は自らを語る自らの言葉に乏しかったのではないのだろうか、と思う。勿論それはただの一種の顕示欲のようなものだったのかもしれないのだが。いずれにせよ、重要なのは「自分の言葉」の存在である。
日本の教育を「心の教育」へと加速させたのはこの事件が一つのきっかけになっていたと記憶している。それから何年も経っている。どうだろう、成果は出ているのだろうか。検証・検討はどうなっているのだろうか。専門ではないし詳しくも無いから滅多な事は言えないが、「上手くいってないんだろうな」ということは恐らく多くの方が実感しているところなのではないだろうか。
そもそも「心」だけに重点を置いてはだめなのだと思う。
「心を豊かにする」教材なり体験学習もいいだろう。だが、それらがただただ消費されてしまうようでは意味がない。それをしっかりと自らに根ざさせ、感受したものを「時間を越えるもの」へと昇華させる事、それを出来るようにする事にもっと注力するべきだ。それは「言葉」の仕事だ。
人は言葉があるから感じる事ができる。
言葉をもっと成熟した体系でもって内在化させることが心、感性、感受性を豊かに育てる事に繋がる。そしてそれが世界と自分とを健全な形で繋いでいく。既にある「心」へと子ども達を向かわせるのではなく「言葉」を通して「心」を育てていくのだ。
刹那的な心に支配され、そこから起こる自らの振る舞いの内に、ありもしない「奥底に眠る本当の自分」を永久に追い求める子ども達を救うのもまた、言葉による根拠だろう。
そしてどうか、肥大化していく魔物から救いを求める先としてではなく、常に自分の傍らにあるものとして、子ども達に、言葉を。
2008年05月12日
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