昔から何かを「好きだ」あるいは「嫌いだ」と思った時になぜそう思ったのかを考えるのが好きだった。
今ブログでCDのレビューをしていること、そしてそれが往々にして「自分語り」になってしまう理由もその辺りにある。
勿論その嗜好は音楽だけの話に限らない。
今はめっきり見なくなったお笑い番組にしても、自分が何故今笑ったのか、何故それを面白いと思ったのかを考えるのが好きで、芸人さんのギャグそのものが面白かったのではなく、MC陣が「笑ってしまう空気」を上手く醸成しているのだという事実にたどり着いた時などそれはもう大変な楽しさであった。
またそのただ単に「面白い」「素晴らしい」だけではなく、そこに至る過程を言葉として残すという事は僕の感じた高揚感の様なものが刹那を越えて根付くという事でもあり、後から検証可能だという事実も含めて至上のものとして「語ること」を捉えてきた。
少し前に某女性3人組が大ブレイクを果たしたとかで、あちこちで話題になっていた(いる)。
個人的にはまるで興味がなく、さして良いとも思えなかったので「言い訳ができるアイドルを欲している人がこんなにいるとは」といった見方をしていたのだけれども、様々な文脈から納得の行く肯定、否定が読めたので、僕の稚拙なノイズは必要ないと判断、口をつぐんだ。
個人的な嗜好は別として、「○○故、素晴らしい」「いや○○故、ゴミ同然だ」というやり取りはやはり見ていて楽しかった。
僕は音楽はもっと議論の対象となるべきだと思っている。本人のパーソナリティやキャラクターではなくて、やっている事そのものが、ね。マイスペの隆盛などでそういう方向にシフトしてはいくと思うけど…日本はどうかな。
話がそれた。
その議論に結論の有無はさして重要ではない。より多くの「なぜそう感じたのか」それが聞きたいのだ。
そんな中、その議論に対する非常に印象的なコメントを目にする事になる。
「何か簡単に好きって言えなくなってきた…」
語りたがりな僕らだって「感情」が先に立ち上がってきて、その根拠を探して、あるいはそれに根拠を持たせるために言葉を紡ぐわけだ。そう、最も尊ばれるは「グッとくる」という感情そのものなのだ。勿論、大多数の人はその為に言葉を用いている。しかし、それがいつしかねじ曲がり、好きか嫌いかを論じるために過剰な「理論武装」が行われる事がある。あるいは武装そのものが目的であるかの様に。コメント主には議論がその様に見えたのだろう。この事はよく考えなければいけない点だと思う。
余りにも心を揺さぶられすぎて、いくら言葉を紡いでも安っぽくなってしまい「好き!」としか言えない事だってあるのだ。だから、まあこれはまるまる自戒なのだが、語る事を至上のものとすることにつては、時々立ち止まる必要があるな、と。
勿論、これからも語る事も考える事もやめないが、それはあくまで刹那を越えるため、「伝えるため」であり、相手をねじ伏せるため、武装そのものを目的としてではないのだ、という事を心にとめておかなければ。僕も、あなたも。
2008年06月28日
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